Q Perry In Japan
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「初めての接触」     Read in English

ヘザー・ベレズ   ブラウン大学 2005年卒業生

[First Contact]

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作者不詳の、日本人絵師が描いた絵巻の一枚目からは、当時まだ浅かった日米関係と、「初めての接触」に至るまでの日米それぞれの歴史に対する日本人の解釈が読み取れる。ポルトガルはヨーロッパ大航海時代に西へと進み日本を訪れた。布教も西洋以外の人々との接触の目的の一つであったため、イエズス会の宣教師がポルトガル人商人に付き添った。イエズス会の宣教師は日本で多くの信奉者を得たため、将軍はキリスト教を政治的脅威と見るようになった。したがって、17世紀にはキリスト教が禁じられた。また、1639年に幕府は鎖国政策を実施した。オランダ以外の西洋諸国は日本と接触を持つことが禁じられ、日本人は日本を出ることが禁じられた。

日本が外国との関係を断ってから二百年後、アメリカは海外に目を向けるようになっていた。「自明の運命」という動機のもと、全世界への影響力を拡大化しようとした。1804年のルイスとクラークの探検、テキサスとオレゴンの併合、ガズデン買収協定、そして1853年のペリー提督率いる日本への初遠征はすべてこの自明の運命説を動機としていた。

この絵でアメリカ人士官は日本人の農民に銃を向け、もう片方の手は絵の外を指している。この日本人絵師はアメリカ人を侵略者と見ていたのだろう。日本人男性は士官の前でひれ伏し、腕を前に投げ出している。日本人は嘆願している。つまり、アメリカ人のように野蛮人ではなく、平和的解決を求めているのだとこの日本人絵師は信じていたようだ。ペリー提督は日本人に正々堂々と向かい立つ意思を持って遠征に出た。アメリカは「No」という答えは受け入れないということを誇示したかったのだ。力ずくで計画を実行する予定だった。従軍画家のヴィルヘルム・ハイネ本人もペリーの戦略は「力には力を持って」だったと証言している [1] 。公式記録である Narrative of the Expedition(『ペリー日本遠征記』)にもあったように、「ペリ−の態度と行動にはアメリカの外交に圧倒的な影響を及ぼした自明の運命論が見られる。」と記されている [2] 1853年の遠征でペリーが唯一譲歩したのはアメリカが翌年の春に日本に再び戻るということだった。ペリーによれば、日本側があらゆる議論を行うのにこの期間が充分だろうということだった。

この絵での青の使い方はとても印象的で、周りの茶や緑のアーストーンよりも目立っている。青(藍の染料から作られた)は赤や紫と違い、当時の勅令によって禁止されていなかった。福田邦夫氏によると、この絵で使われている濃紺は最も頻繁に使われていたとのことである [3] 。絵師はおそらく、18世紀に西ヨーロッパで発見され日本にも渡ったプルシャン・ブルー(紺青色)を使用していた。青は日本人になじみのある色だったため、職人の間で人気があったのであろうと福田氏は推測している。また、「日本人は天に宿る神を信仰することがなかったため青は高尚な宗教的意味を持つことがなく」あちこちで使われた色だった、と [4] 。アメリカ人士官と背景にある山だけが青で描かれている。山はおそらく江戸(東京)湾からよく見える富士山である。日本ではあがめられている富士山を描くのは重要な意味を持つ。過去も現在も多くの日本人が信じる山岳信仰では、山は神聖で、山に神が宿っているのだと信じられている。山は環境的財産でもあり、動物に生きるすべを与えるとともに保護し、周辺に水を供給する川をも作り出す。

 

References

  1. Wilhelm Heine, With Perry to Japan, trans. and ed. Frederic Trautmann (Honolulu: University of Hawaii Press, 1990), 3.
  2. House Record, Narrative of the Expedition (1856): 626, quoted in Wilhelm Heine, With Perry to Japan.
  3. Kunio Fukuda, The Colors of Japan (Tokyo: Kodansha International, 2000), 28.
  4. Ibid., 28.